高砂市水道事業 100周年記念誌・高砂市水道50年史 P.41.加古川堰止めをめぐる漁業組合との争い〈1900年〜1902年〉 神戸製紙所の工場建設に伴って加古郡長に提出した加古川堤防の堀割、樋門を設置する申請は、1900(明治33)年9月24日に許可された。 1901(明治34)年6月15日、晴天が続いたことで加古川の水位が低下し、満潮時には製紙所の取水口にまで海水が逆流してきた。そのため、工場からの排水にも塩分が含まれてしまい、これが近くの水田に入り、稲を変色させてしまった。 神戸製紙所の工場でも海水の流入に気づいたため機械の運転を休止した。さらに、全従業員のほか、水利組合及び農家の応援を求めて数千個の土俵を作って、用水取入口の下流に加古川を横断する防潮堰を築いた。この年は加古川の水量も増したので無事に終わったが、翌1902(明治35)年に再び問題が発生する。加古川防潮堰工事は魚族の繁殖を害し、かつ堰止場所から上流への魚族の移動を妨げるにより本年以後は工事の施設をなさざるようされたし。 1902(明治35)年3月25日、加古川の堰止めを予測した漁業組合は先を越して、500名余りが大挙役場前の善立寺に集合し次のようなことを町長に申し出た。 その時、町長不在で助役が応接し、町長と相談しておく旨を答えた。 しかし、彼らは要求を繰り返して集会を解かず、また別府、伊保崎の2か所でも同様に漁業組合が集合して不穏の形勢があったので、高砂警察署をはじめ加古川、魚橋各署は警官を召集して解散を命じた。翌26日午後3時頃には、漁業組合約300人が工場付近を歩き回ってデモを行ったので、神戸製紙所は消防士の出動を要請し、徹夜で警戒にあたらせた。 神戸製紙所が応急策として施した防潮堰に対する漁民たちの反対は排水問題に絡んでいたが、上流に堰を造られては淡水を募って河口に集まる魚が姿を消し、したがって漁業従事者の生活が脅かされる結果になるということに重点を置かれた。第1章 プロローグ(序章)17第3節 工業用水確保に向けて
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