高砂市水道事業100周年記念誌
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高砂市水道事業 100周年記念誌3.漁民と農民の対立〈1903年〜1908年〉 そしてようやく神戸製紙所の工場の機械は動き出したが、漁民は、堰が船の通行の妨げとなり、さらに下流の淡水が減少することにより魚類の生育が妨げられるため、即刻堰を取り外すか損害賠償をすべきであると主張した。 これに対し水利組合は、「堰止めは田の用水の必要上、従来の慣習どおり実施したことで 漁業者への影響は当方の顧慮する問題でなく、これまでもこのような抗議を受けたことは一度もない」と応答。そこで漁農両者の対立となり、町当局の仲裁も効果なく情勢ははなはだ険悪となってきたが、話し合いの結果、契約が成立、解決した。 こうして加古川の堰止めは毎年の年中行事の一つとなり、数年間は事なきを得たが、1908(明治41)年になって上流の小松原村が反対を唱え出した。この態度がはなはだ強硬でこの年はついに堰止めをすることができなかった。4.工業用水確保への模索〈1908年〜1909年〉 この間の工場の苦心の模様は次に掲げる手紙の一節でもよく判明する。明治41年6月20日 用水欠乏操業差支報告の件去る17日午后4時迄の情況御報告申上置候通り、同日午后6時に至り遂に工場全部機械運転を停止するのやむなきに立至申候、云々 1908(明治41)年はそのままにして、その翌年は小松原村に1日15円を贈って堰止めを行ったが、その次の年には、米田村、鳩里村、氷丘村、加古川町等が連名で同じような苦情を三菱製紙に申込んでいる。これは、小松原村の例を聞いた上での画策であることは明らかであった。相手が三菱製紙であることを見込んでのことであるから、この種の問題は際限のない話である。高砂町長も意を決して断固拒絶したので、郡長が調停に立ち事なきをえた。 1913(大正2)年砂利採取業者から船の通れる幅だけ堰を切り開けといってきたが、それでは堰止めの意味がなくなり、難題に等しかったので、これも町長のあっせんで堰の上下で砂利を積替えることに話が決まり、その費用を会社が負担している。 このように堰止めは、問題を起こす元になるので、三菱製紙は他に用水を得る方法を模索した。その一つとして1908(明治41年)から1909(明治42)年にかけて、次のような計画をしている。第1章 プロローグ(序章)・高砂市水道50年史 P.519

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