高砂市水道事業100周年記念誌
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高砂市水道事業 100周年記念誌 加古川は江戸時代から明治中期まで流域の産物を高瀬舟で搬出する重要な交通路で、住民が受ける利益も大きなものであったが、古くから洪水のため何度も災害を起こし多くの人命と家財に大損害を与えていた。中でも1896(明治29)年8月30日、1897(明治30)年9月29日、1907(明治40)年8月26日の水害は、堤防の決壊や家屋・田畑などに甚大な被害を及ぼしたとの記録が残されている。その区域も左岸では加古川町、鳩里村、尾上村、別府町、野口村の一部、右岸では平荘村、米田村、伊保村、曽根町、荒井村、高砂町、阿弥陀村の広範囲で、1897(明治30)年9月29日の水害誌には「米田、荒井、伊保、高砂に水がみなぎり、洗川決壊箇所から濁水は伊保村及び曽根町を襲い、出河原の破損箇所からの濁水と合して竜山、石の宝殿を包囲し、阿弥陀村に殺到、印南郡の損害2,000戸、死者5名、東神吉村出河原の決壊でも甚大な被害があった。排水路をたたれたこの水は西志方横大路付近まで水浸しとし、田畑の浸水5,800町歩に及ぶ」とある。22コラム①コラム①コラム①加古川で頻発する水害 〜出河原切れ洪水〜〈1896年,1897年,1907年〉

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