高砂市水道事業 100周年記念誌1.上水道敷設をめぐる対立〈1921年〉 1921(大正10)年4月の町会議員選挙直後、河合義一らを中心に立憲青年会(のちの高砂同志会)が組織され、町政改革を誹謗し水道敷設反対を唱えた。これは前述した1919(大正8)年12月6日に三菱製紙と町が結んだ共同水道敷設に関する仮契約書に記された条件や工事の意義をめぐるものであった。 反対側の論旨は、「三菱は河水の引用を出願したが許可されないので、町当局を抱きこみ町を利用して工事を遂行した」「第2期工事は三菱に便宜を与えるだけ」「住民はそのため莫大な負担に苦しむ」「第1期工事の寄附によって、三菱は永久に水を無料供給することは三菱には利益ではあるが、町にとっては大きな犠牲である」というものであった。2.反対運動の高まり〈1921年〜1922年〉 1921(大正10)年12月13日に挙行された第1期工事完了後の通水式において、田原豊・三菱製紙取締役会長が「高砂の上水道も三菱のおかげで施行されるようになった」という趣旨の発言をしたため、反対派の町民が反発し、町長不信任・反三菱を叫んで結束を固めた。高砂町民の中には、三菱が高砂進出以来、排水・用水問題で農民や漁民を苦しめ、さらには上水道敷設で町民に大きな負担を強いようとしていると考える人々がいたことが推測される。 1922(大正11)年6月4日には高砂同志会主催の反上水道演説会が町公会堂で開催され、1,500人の聴衆が集まった。町民大会は何度も開催され、上水道敷設反対派は地方遊説中の尾崎行雄、犬養毅、島田三郎、永井柳太郎の諸氏を招き、賛成派は安芸盛、西尾末広、坂本勝、片山哲、田万清臣、浅原健三等の政治家を招いたこともあった。 演説中の弁士が拘束されることもあり、町長宅に脅迫状が舞い込み、町はかつてない険悪な空気に包まれた。30・神戸又新日報 大正11年12月27日付第2節 高砂上水道事件
元のページ ../index.html#32