高砂市水道事業 100周年記念誌4.反対運動の再燃〈1922年〉 前述のように1922(大正11)年5月以降同志会を中心とする反対運動が展開されていたが、8月に入ると同志会が問題を戸主会委員に一任し、戸主会側と町当局は合意し、反対運動は一時終息した。 ところが、1922(大正11)年8月29日に町が提出した第2期工事の申請書に「給水人口1万人を1万5千人に増加、なお、2万人まで給水できる施設に変更の上」として提出したことで反対派の運動は再燃した。 戸主会は9月2日、町民大会を開いて町長及び町会議員の不信任と引退を勧告した。また9月4日には戸主会から河合義一・小林文二ほか15人が県庁を訪れ、第2期工事の差し止めを嘆願した。さらに9月21日には同志会・戸主会の数十人が県庁を訪れ、「土地の人々が反対し且不利益になるやうな事業を何故認可する方針を採ったか」と詰め寄ったが、県課長は「決定権は内務省にあり、県は書類を取り次いだに過ぎない」とこれをかわした。そこで反対派は上京し、10月7日に内務省に戸主会委員2,100戸のうち1,307戸主分の敷設反対調印をもって工事延期を陳情した。しかし11月20日、第2期工事変更認可申請が認可され、翌年着工されることとなった。 この頃になると反対運動は空前の盛り上がりを見せ、反対派が行う演説会には神戸暁明会の応援があったほか、中央の有力政治家である尾崎行雄・島田三郎・永井柳太郎が高砂町で演説を行っている。第2期工事変更の認可直前の10月3日に、神戸暁明会主催の民権伸長・普選断行大演説会が町公会堂で聴衆1,300人を集めて開かれ、最後の弁士として島田三郎が登壇した。島田は上水道問題について、「諸君は町長を信任せぬ故に納税する場所がないといふ結果であるが故に信任できる納税場所の出来る迄は、納税を見合しても善からう」との趣旨の発言を行い、これを新聞各紙に広告して、当局に対抗せよと言って聴衆を沸かしたと報じられている。島田の発言を受け、反対派は町税不納同盟を結成した。12月3日付の「大阪朝日新聞神戸附録」では、納税者2,800人のうち11月30日までに納税した者は1,300人、不納者は1,500人と報じられている。 続いて12月23日、反対派は小学校の同盟休校を実施した。12月26日付の「神戸又新日報」では、「教員等の家庭訪問による出席勧誘にもかかわらず、25日には総数900人の児童が欠席した」と報じられた。32・神戸又新日報 大正11年12月24日付
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