高砂市水道事業100周年記念誌
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高砂市水道事業 100周年記念誌 その後も加古川の水質は悪化の一途をたどり、朝日町浄水場のろ過池に相当の負荷がかかり、処理能力は低下し、浄水にも色度が残るほどで、1963(昭和38)年1月10日に浄水色度は4.5度となり、当時の浄水色度基準値の5度近くとなり、市内浴場、一般市民から苦情が絶えなかった。また原水色度は1957(昭和32)年度は5度、1960(昭和35)年度は11度、1963(昭和38)年度は33度と年々増加していった。 加古川の水質汚染に関して高砂市は、1963(昭和38)年1月28日に厚生大臣(現:厚生労働大臣)ほか関係当局に「公害特に河川の汚濁防止について」の要望書を提出し、再度河川汚濁防止を要望した。さらに1964(昭和39)年6月18日、衆参両議院議長、厚生大臣ほか関係当局に加古川水系の水域指定、水質基準値の早期設定を請願した。しかし、水質悪化は収束の気配がなく、1965(昭和40)年12月19日には浄水色度が6.5度となった。そこで高砂市は兵庫県、西脇市に対して「加古川汚染について」と題する要望書及び汚染された水道原水を4斗入り樽に詰めて、直談判し汚濁防止を要求した。 このため、1966(昭和41)年、兵庫県から経済企画庁(現:内閣府)に対して、加古川水系の水域指定並びに水質基準設定の要望を行い、水質審議会第9特別部会(加古川部会)が設立され、同年7月15日に西脇市役所において第2回会議が開催された。高砂市から上水道原水及びろ過水のサンプルを示し、窮状を訴え、1966(昭和41)年、経済企画庁から委託を受けた名古屋大学理学部により、加古川水系水質調査が実施された。そして1967(昭和42)年の第4回会議で水質基準案が示され、同9月2日、経済企画庁告示第93号によって、加古川水域指定及び水質基準が公示された。以上の経過により、1959(昭和34)年の「公共用水域の保全に関する法律」及び「工場排水等の規制に関する法律」が施行後、8年経ってようやく水域指定及び水質基準が決定した。 1968(昭和43)年10月に加古川水域の水質基準適用の日が迫っていたが、西脇排水処理施設の工事は着手されず、処理方法のみが決定された状態であった。66・公共用水域の汚濁防止についての請願コラム⑧コラム⑧加古川の水質汚染状況の対応

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